3月9日「ありがとうの日」
3月9日=ゴロ合わせで “サン・キュー” だから
本日は『ありがとうの日』なんだそうです。
理由はどうであれ「感謝する一日にしましょう」と、きっかけを与えてくれることは助かりますね(笑)。
『 ありがとう 』
とても良い言葉です。
漢字では「有り難う」と書きます。
ビジネスメールとかで堅苦しい内容を書くとき以外、漢字で綴る機会も無いので、正直いうと普段はひらがなで書くことの多いフレーズです。
「有る」ことが
「難しい」わけなので
そのことが実現したら、感謝したい。
わたしはそのような意味で受け止めて使うようにしています。
あなたは、今、
誰に・どんなことに、「ありがとう」を言いたいですか?
- わたしは後悔から ありがとうを云う
- 「〇〇のおかげ」で生きてこれた
- いい大人が勘違いしている姿は残念
- 遠慮するな 何回でも云えば良い
- 先祖が残した田んぼに感謝できるか?
- ありがとうを云うタイミングは「今」です
- 「ありがとう」は 巡り 廻る
わたしは後悔から ありがとうを云う
“ 思い立ったが吉日 ” という言葉があるように
そのときに言わないと(実行しないと)後悔することは多々あります。
その日が来るので書きますが
わたしが後悔しているのは、3月11日です。
そう、東日本大震災が発生した日です。
母に。父に。
当時同棲していた内縁の娘に。
従兄姉のお兄ちゃん、お姉ちゃんに。
母の次に慕っていた叔母ちゃんに。
家が隣りで弟のように思っていた幼馴染に。
同級生もたくさん。
今年で11回目の3月11日を迎えるわけですけど、
11回も後悔の念に苛まれています。
お別れする前に言えなかった言葉
それが「ありがとう」です。
「〇〇のおかげ」で生きてこれた
岩手県の沿岸エリアは、東日本大震災の津波で甚大な被害を受けました。
わたしが住んでいるところはその中でも最も被害の大きかった地域のひとつで、人口の1割とまでいかないものの、約1,800名の尊い命が犠牲となりました。
その中に、わたしにとって大切な人も大勢含まれています。
日が近いということで、東日本大震災を例に挙げましたけど、何もこういうことは特別に起きたことではありません。
残念ですけど様々な理由で命が絶たれることは日常です。
さっきまで元気だった人が不慮の交通事故で犠牲になったり、現代ではコロナ関連で闘病の末に亡くなられる方も少なくありません。
わたしが悔いるのは、その日常に対して、
有り難みを感じられなかったことかも知れません。
- 家族と楽しいおしゃべりができて元気をもらっている。
- 社会人になる前までは両親が面倒を見てくれる。
- たゆまぬ企業努力のおかげで美味しく健康に良いものが安価で購入できる。
- 正しい情報発信のおかげで、正しい社会生活を営むことができる。
- 大人になってもメンターの言葉が支えとなっている。
これらが得てして、当たり前のことだと思って今まで生きてきてしまいました。
しかし、実はこれらにすべて支えられてきたおかげで生きてこれたはずです。
いい大人が勘違いしている姿は残念
ときには、図々しくも、
- 「あっちの店の商品のほうが10円安かった」
- 「あの店員のほうがサービスが良い」
と、店員さんに皮肉を言うおばちゃんもいます。
- 「会社でのあの人の態度が気に入らない」
- 「あの人は優しいから頼みやすい」
と、まるで自分が上長のように振舞う人もいます。
そういう残念な人を見ると、逆に、
自分の態度を見直せて良かったと思います。
同時に、『ありがとう』と言えない、人として器が小さい方なのだろうな …… と憐れむばかりです。
遠慮するな 何回でも云えば良い
人間は、感謝したり愛する、美しい心を抱いて、さらに表現できる生き物です。
そのような想いは、伝えられた人も、例外なく同じ美しい心で受け止めてくれるでしょう。
照れくさくて素直になれなくても、心は正直に、その感情に寄り添います。
「嬉しいなぁ」「温かいなぁ」「気持いいなぁ」と、両者にはとても温かい気持ちが芽生えます。
良い事づくし出し惜しみする必要はない。
悪いことは一切無く、良い気持ちに包まれる。
感謝すること、
「ありがとう」はそういう力を持った言葉です。
生活の中に溶け込みすぎて、なかなか気付かないこともあるのですが、 “私たちが生きていること” は、奇跡の連続の上に成り立っている現象です。
まず、明確なところでいうと、両親が出会わなければ、自分は存在していないことですね。
怪我や病気をしても、治る可能性が高いのは、医療の発展があり、国が国民の健康維持をサポートしてくれるからです。
仕事もそうです。上場企業の役員も、コンビニでアルバイトされている方も、わたしは優劣付けられません。どちらも、双方から絶対に恩恵を授かって生きていられるはずです。
先祖が残した田んぼに感謝できるか?
そういうことを言いだすと、
「じゃぁ、ごはんを美味しく食べられるのは、
お米農家さんの努力があったり、もっというと
そのご先祖が田んぼを残してくれたことに
繋がっていくじゃないか!」
「そんなことにまで
いちいち “ありがとう” って言うのかよ⁉」
と、ツッ込んでくる人がいるんですけど、
わたしから言わせれば、
「感謝するって、紐解けばそういうことだよ!」
と言い返したくなります。
そもそも、当たり前のように、食卓に白いホカホカご飯と栄養満点のおかずが並ぶことを、当然の光景だと思っている時点でガッカリです。
労働できる健康な身体と、食材を提供してくれる産業や小売業の努力、調理できる道具があり、食事をゆっくり味わう時間と住まいがある。
これらが奇跡的に絶妙なバランスで結びついているからこそ、今日の食卓があります。
わたしの兄は、宗教柄(差別的な意味ではありません)、食事の前に長い時間をかけて “祈り” を捧げてからようやく箸を持ちます。
こういうことだと思うのです。
特定の宗教を信じる信じないはともかく、
彼はおそらく、お米農家さんと子孫に田んぼを残してくれたご先祖様にまで、感謝を述べてからご飯を口にしているんだと思います。
ありがとうを云うタイミングは「今」です
毎回の食事の前に祈りを捧げることと同様、
感謝を伝えるのは “今” なのだと思います。
少し想いが強すぎて、だいぶ脱線しました(笑)
わたしは、大切にしている人に「ありがとう」と伝えられなくて、その後11年も後悔しています。
毎年この時期は、彼らが生きていた震災の前日、
記憶は 2011年3月10日 に戻り、
「ひとこと、ありがとうと伝えれば良かった。」
「最後に交わした会話は何だっけな。」
と、思い出そうとします。
なんだか重い内容になってしんみりさせてしまいましたでしょうか。
本来「ありがとう」は前向きで明るい言葉にもかかわらず、伝えられなかったことで、同じくらいのパワーで負の感情が返ってきます。
本当にそう『有り難い』と思って言っているか、
軽い気持ちで「ありがとう」と言っているのか、
多分ですけど、言葉に込めた重みはあまり関係ないです。
自分がそのとき、相手にしっかり伝えられたかどうかが大切かなぁと思っています。
相手が、感謝の気持ちを受け止め、少しでも幸せな気持ちになってくれるために、「ありがとう」という言葉が存在しているのだと信じます。
この世で感謝の気持ちを伝えきれなかったことは、これからも後悔し続けるものの、もう仕方ありませんから(笑)、あの世で再会したときにあらためて伝えます。
「ありがとう」は 巡り 廻る
わたしがまだ20代だったころ、(当時、病気の両親の)介護で寝る暇もなく忙しかったときに、いろいろ援助してくれた人たちがいます。
当時のわたしは、まだ若くて経済力も無く、そうしたくても、その方たちに恩返しできるような力を持っていませんでした。
そんなときに、
「君が大人になったら、同じように困っている人たちを助けなさい。
君を助けてくれた人に、直接恩返しする必要はない。
今はありがとうございましたとだけ言っておけば良い。
年月が経ち、君ができるようになったときに、今回のこととは何の関係もない人だとしても、目の前に困っている人がいるのならば、助けてあげなさい。
その行為が、巡り廻って、必ずその人たちに恩返しという形になって届くものだよ。」
と、優しく教えてくれたメンターがいます。
その方も、残念ながら東日本大震災で命を絶たれて、やはり最後に「ありがとう」の言葉を伝えられず悔やんでいる相手のひとりでもあるのですが、その教えは今も私の心の指針となっているのは確かです。
ですから、百歩譲って、伝えたいときに感謝を伝えられなかったとしても、その教えを胸に、これからの人生ではひとつでも多くの感謝を伝えていきたいと思っています。
感謝を伝えたくても伝えられなかったことは
それはそれで仕方ないと割り切りますけど、
今後の人生で多くの感謝を伝えることが、巡り廻って、私の後悔している相手に届くものと信じています(*^^*)!
うまくまとめられずにスミマセン(笑)。
今回はこのへんにしておきます。ちょっと難しい内容になってきて、これ以上書くと、押し付けがましくなりそうなので^^;
あくまでも、わたし個人の思想として捉えていただければと思います。
今回も最後まで読んでくださって
ありがとうございました!
(∩´∀`)∩
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